江戸時代、各地の大名は幕府から江戸に屋敷を与えられていました。参勤交代制度により1年おきに江戸で暮らさなければならなかったからです。屋敷には正室や嫡子が人質として暮らしていますし、幕府との連絡なども行われ、時には将軍が訪ねてくる事もありました。ですから、ほとんどの大名屋敷は江戸城の近くに与えられていました。ところが津軽家だけは隅田川の東側にぽつん。
江戸で暮らす大名は、決められた日時に江戸城に行って将軍にあいさつしなければなりません。週に一度は江戸城に行く計算になりますが、駕籠に乗って行列を作っていくわけですからかなり時間もかかります。弘前藩津軽家も19世紀に入るまでは46000石程の中堅外様大名でしたので、数十人の列になったはずです。当然遅刻は処罰の対象となりますからなおさら江戸城の近くに暮らしました。
津軽家の屋敷も初めは上野山にありました。寛永寺の建立にあたり神田小川町に屋敷を与えられたものの、貞享5年(1688)、詳細は不明ですが突然の本所転居を命じられます。どうも将軍徳川綱吉と弘前藩主津軽信政との間のトラブルが原因とも言われています。信政の三男が養子先の藩主になれるように画策したのが綱吉にバレた結果の移転と言われています。
転居命令から40日後に本所の畑地7000坪以上を与えられました。通常は10万石以上の大名に与えられる面積でした。屋敷の工事が始まったのはさらに3か月後からで、工事が完了するまで2年余りを要しました。なぜか途中に5か月間の中断をはさむという謎の多い津軽家の移転でしたが、元禄4年(1691)の春にすべてが完成しました。その間、殿様や家臣の人たちは向柳原(台東区浅草橋)の別邸から毎日本所へせっせと通った事でしょう。(五味和之)
演出:宮本亜門さん 脚本:池谷雅生さん
今年(2023年)の2月初めに墨田区プレビュー公演と東京東信用金庫さん貸切公演があり、見てきました。札幌から鹿児島まで各地で上演され、3月22日から26日に紀伊国屋ホールで東京凱旋公演が行われました。パンフレットには「今という時代を台本に入れ込むことを何度も話し合ってきた」とあります。90歳まで長生きし世界的な絵師となった北斎の一生には17歳の頃の天然痘の大流行や浅間山の噴火、天明や天保の飢饉、中国のアヘン戦争敗戦など、たしかに現在と同様な大事件が起こっていたようです。そのような北斎(演:西岡徳馬さん)と娘のお栄(演:雛形あきこさん)の生活を、現代の若い画家、作画になやむ凛汰(演:谷佳樹さん)を登場させて、話が進んでいきます。舞台上には2階建てに箱キューブをつなげた家が作ってあり、どの壁を開けるかで北斎の時代と現代が自由に表出します。狭い舞台でも効果的な音響とともに場所や時を自在に操る仕掛けには感心しました。偉大な葛飾北斎を現代でも見ることができ、とても良かったです。 (岡本雅義)
北斎さんは「絵本彩色通」に「九十歳よりは又々画風をあらため」と記しました。
亡くなる直前、数え90歳になった北斎さんは「富士越龍図」を描いています。
北斎さんの生きた時代、日本は鎖国状態でしたが、長崎出島のオランダ商館や中国からの書物が翻訳され読まれていました。
北斎さんの弟子には、西洋砲術を長崎の高島秋帆に習っていた蘭学者、大塚同庵もいたので、西洋での蒸気機関の発明と溶鉱炉製鉄、産業革命、鉄道の出現を知っていたかもしれません。反射炉製鉄の本も1843年頃から伊東玄朴たちにより翻訳されていました。
1853年、存命なら94歳の時、江戸湾にはペリーの蒸気黒船がやって来て開国します。(岡本雅義)
北斎さんの販売キャンペーン、大ダルマを描くイベントです。音羽護国寺や名古屋で行われました。
回向院では大布袋様、東駒形の合羽干し場では大きな馬の絵で、人々を驚かせ、新発売の浮世絵を即売したそうです。
右の絵は200年前の1811年(文化八年)に描かれた「幟(のぼり)の柱立て」です。
この絵を画いた頃は本所亀沢町の新宅に住んでおり、近所には、まだ八、九歳のワンパクな子供だった勝小吉さんも住んでいました。勝海舟の親父さんです。
北斎さんは働く人たちの絵を、たくさん描いています。北斎さんがスカイツリーを見たら、どんな絵を画くのでしょうか。(岡本 雅義)
永田生慈さんの書かれた「葛飾北斎」(吉川弘文館)という本に、北斎風景画の最大の特徴は、「ひとつの題材がみせる変化を徹底的に追求した点である。」とあります。
北斎の風景画ではそのダイナミックな構図の中で生き生きとした人物や生活感を、空の雲や陽の動きから天候や季節感を、波や風の動きから自然の躍動感を、感じることができます。
たった一枚の絵や写真では伝えることのできないほどの情報量がまるで動画(ムービー)を見ているかのように伝わってきます。私たちは毎日の暮らしの中で身の回りの風景を眺めて、生活の中の思い出として頭の中にそれを記録し、振り返ってとぎれとぎれの記憶を映像として思い出します。
北斎は、過去の記憶も眼前の情景も想像の世界もすべてを自由に重ね合わせたり、切り取ったり、デフォルメしたりして頭の中の多大な情報をたった一枚の絵の内に描き上げることができたようです。(岸 成行)
「葛飾北斎伝」という本に、次のようなことが書かれています。 北斎さんは夜遅くまで画いて疲れると、寝る前に蕎麦を二椀食べるのが習慣で、酒は飲まず、スイーツが大好きでした。
本所石原の名物だった「石原おこし」の菓子屋戸崎さんは、北斎さんを訪れる時、必ず大福餅七つ、八つを持って行ったそうで、「北斎さん大変喜んで、舌を鳴らして食べた」そうです。
「北斎漫画」六編に寄せられた序文にも、草餅やおはぎも大好きだったように書かれていますし、晩年に、露木さんという人がスケッチした北斎さんの室内の絵にも、土産物の桜餅の籠が画かれています。
常に新鮮な大量の絵を永年画き続けたパワーの源は、スイーツ達だったのかも??(岡本 雅義)
北斎おじいさんは、1760年10月31日(宝暦10年9月23日)に生まれて、今年で250歳になられます。北斎の高祖父(ひいひいおじいさん)は、忠臣蔵の47士の一人、小林平八郎だったということです。本所割下水(北斎通り)の周辺で生まれたといわれていますが、私達のまちのどのあたりで生まれたのか、今回調べてみました。
北斎がまつられている誓教寺の北斎のお墓には、「川村氏」と文字が書いてありますね。そうすると、北斎は、川村氏の子どもになりますね。
「本所絵図」の地図を見ますと、割下水の周辺には、「川村」という名前の家が、偶然にもありますよ。北斎の生まれた家は、ひょっとすると、その家かもしれませんね。
北斎は、4~5歳のころに、中島伊勢という江戸幕府の御用たつ鏡師の所に、養子にいってるんだよね。(住まいは、現在の吉良邸のあたりだったらしいよ。)
養子にいったことから考えると、北斎の家は、おさむらいではなくて、町人だったんじゃないかな。
割下水のそばで、町人が住んでいた所は、本所三笠町・長崎町(現在の亀沢4丁目付近)あたりになるから、ここらあたりが、生まれた場所だったかもね。
北斎の生まれた場所に心当たりのある方は、ぜひご一報願います。(協力 墨田区)
昔、人間の平均寿命は、50年と聞かされてきました。赤子の死亡率が高かったので、とも聞いていました。我等が誇る北斎先生、限りなく巾広い多くの作品をどの様な健康管理の元で病にもならず体力を維持して生みだし、21世紀の平均寿命90才までと思う事ありませんか?
あ!ありました。当時の人も才能あふれ、長寿の北斎先生を不思議に思って北斎先生に聞いていました。秘伝の長寿薬を宮本慎助と云う人に書き与えたレシピがありました。
「龍眼肉16匁(60g) 白砂糖8匁(30g)極上の焼酎を壱升壺に入れ良く蓋をして60日間置く、朝と夕に猪口で2杯を飲む。
この薬のお陰で、私88才になるまで無病であった」と90才で亡くなるまで愛用していたようです。現代のサプリメントでしょうか。試されてみますか。 (文責 安斉)
90年に及ぶ生涯の中で93回転居を繰り返したと言われる北斎は、1849年(嘉永2年)4月18日に台東区浅草6丁目で永眠しました。
生前北斎がよく顔を出していた元浅草の誓教寺には北斎のお墓があり、毎年命日の4月18日には追悼法要が行われております。
追悼法要では、お寺のご住職のお母様の「北斎さんに実際会った方がいらした」というお話や、「お布施の代わりに納めてくださった多くの作品は全て関東大震災で焼けてしまい、今お寺に残っているものは、疎開していた作品群と他の方からのご寄贈によるものです。」等の、とても興味深いお話を伺うことができます。
また、お話の中で必ず”北斎さん”とお呼びするのもこのお寺に眠られている、とても身近な方との想いが伝わります。 (文責小林京子)
ドイツベルリンに近いドレスデンのエルベ川にかかる橋の中央に「大浪」のレリーフがあります。設置方法などインパクトの強さが目を引きます。当地の水害を記録した、年月日領域などが北斎の名と共に刻まれています。
風雨の恐ろしさを現代風の展示で表現しています。「大浪」の描写がアウグストゥス橋の上で役立ち、日本人としては誇らしいことと思います。
「すみだ北斎美術館」の開館が待たれる今日、世界にちらばる名作の生みの親、北斎をふりかえり、住民一致で称える時が近づきつつあります。(文責 松本)
北斎は生涯に30回も改号をしている。
「宋理」「画狂人」「為一」「卍」等。私達にお馴染みの北斎の号は「北斎辰政」の略称で、これは彼が深く信仰していた北斗七星の化身とされる北辰妙見菩薩に因んでいる。北斗星は絶対に不動。
絵師北斎の芸術家としての信念と信仰が一致していたのではないだろうか?北斎は柳島の妙見堂(現在の法性寺墨田区業平5丁目)を強く信仰していた為、この近辺に住む事を好んだようだ。妙見信仰は江戸時代に隆盛を極めた。
そう言えば神田お玉が池の千葉道場の流祖千葉周作も妙見菩薩を信仰していたので「北辰一刀流」の名が付いたと言われる。若き日坂本龍馬も師範を努め、山岡鉄舟、新選組隊士も学んだ流派である。 (文責藤間清美)