北斎通りまちづくりの会
2010年04月29日
去る5月14日(金)に、平成22年度のまちづくりの会が、亀沢三丁目町会会館で開催されました。昨年度の「活動報告」、「会計報告」、「住まい・まちづくり担い手事業によるワークショップ」の報告がありました。今年度の活動として、『北斎祭り2010』を10月3日(日)に開催することが決まりました。今年度も、「灯りのフェスティバル」、「金魚ねぷた」、「フラダンス」、「バトントワリング」などを行います。今年は、北斎が1760年(宝暦10年)に生まれて、250年の記念の年になります。昨年同様に、にぎやかで、活発なお祭りに盛り上げたいと考えています。『北斎祭り2010』の時に緑町公園で行われる屋台は、今年から、まちのお店などに呼びかけを行い、希望者に参加してもらうようになりました。どんな屋台がでるのか、楽しみにしてください。詳細は、次号でお知らせします。
今年は、北斎おじいさんが生まれて、250年になります。北斎おじいさんは、割下水(北斎通り)周辺で生まれたといわれています。どのあたりで生まれたのか、調べてみました。「北斎こぼれ話」をご覧下さい。
今年度も、「住まい・まちづくり担い手事業」に応募し、活動支援が決まりました。亀沢地区の景観まちづくりを考えるために、具体的な活動を行う予定です。ご協力、よろしくお願いいたします。
景観検討部会で、平成21年度に、「ものづくり」ついて、メリヤスと鉄鋼の関係者の方とワークショップを行いました。この時の内容をもとに、ご紹介します。
昭和38年頃の北斎通りの写真です。小さく四角に見えるのは、自動車(トラックなど)です。二重・三重と駐車していることがわかりますか?荷物の積み下ろしで、混雑していた様子がわかりますね。また、鉄鋼業の会社が、北斎通りの道路を舗装しなおしたそうです。
○明治になって、廃藩置県で失業した武士が、取り組むのがきっかけでした。○旧津軽藩士が中心となり、本所・松坂町に「勧工社」を設立。○旧松本藩士が中心になり、両国矢ノ倉に「共同社」を設立
○労働力が得やすかったこと○江戸時代の大名の下屋敷など工場に転換できる建物があったこと○川に囲まれているので、原料や製品の運搬に便利なこと(竪川、大横川等)○消費地までの距離が短かい
亀沢地区では、『○○莫大小』と書かれたお店をよく見かけるよね。『莫大小』とは、「メリヤス」のことです。メリヤスは、伸び縮みがあって、身体に良く合う、「大小に莫(よ)く合う」というところから、漢字では『莫大小』と書きます。
大正12年(1923年)の関東大震災により、東京のメリヤス企業約1,600社のうち7割が罹災しました。そのとき、ミシンなどの機械を焼失から防ぐために、割下水(北斎通り)に投げ込んで、逃げたそうです。それにより、水浸しにはなりますが、焼けただれるよりは、修復がしやすいという考えからだったそうです。
国際ファッションセンターは、東京の東部地域のファッション関連産業を支援する目的で、平成12年(2000年)4月に開業しました。地元の企業も出資し、第三セクターの株式会社として、旧・墨田区役所跡地に設立されました。昨年(2009年)10月に、合同展示会が「ZEROからの出発」というテーマで開催され、亀沢の会社も出展しました。墨田発の春夏物商品の展 示が行なわれたそうです。
今年(2010年)4月に、山崎直子さんが搭乗したスペースシャトル「ディスカバリー」の船内服として、採用された『オリジナルポロシャツ』は、亀沢の会社(丸和繊維工業)で作られました。この『オリジナルポロシャツ』は、あおもり藍産業協同組合と弘前大学との産官学連携により、「藍染」と「動体裁断」が研究され、宇宙で着ること、無重力でも働きやすいことなど、工夫された製品だそうです。
○本所の周辺には、ボルト・ナット、金庫屋、鍛冶屋など中小の工場があったこと○隅田川から、直接船で竪川に入り、小名木川から千葉への連絡水路だった
本所での始まりは、明治7年の内田幾助の本所吉田町の店。通称「釘幾」と呼ばれていました。
明治42年の中村藤太郎の本所緑町三丁目の店。通称「中藤」と呼ばれていました。
本所地区に多かったのは、古鉄屋でした。専門的には、以下のように、「古鉄」「新鉄」と呼ばれているそうです。○古鉄(ふるてつ)屋とは 船の解体品などひと山いくらで買ってきて選別して、品種別に分けて売る○新鉄(あらてつ)屋とは 輸入鉄や国産鉄の新品を専門に扱う
東京大空襲で焼け野原になった後、割下水での復興が徐々に始まりました。昭和23年(1948年)に「鐵交会」(現在の本所鐵交会)が発足しました。その後、統制制度がなくなり、朝鮮戦争の影響で、「金へんブーム」になります。昭和28年(1953年)頃から、鐵交会館の建設の話が始まります。会館の規模や土地費と建設費の資金調達など、様々の課題の解決に非常に苦労されたそうです。そして、昭和36年(1961年)に会館が緑町4丁目に竣工し、東京の鐵鋼関係の団体の本拠地が、本所にできたことは画期的で、本所の団結が認められた出来事だったそうです。
昭和35年(1960年)ごろから鐵鋼関係の会社のための新天地をつくろうという「鐵鋼団地づくり」の機運がもりあがり、昭和38年(1963年) から、検討が始まったそうです。「本所鐵交会」が中心となって、『浦安鐵鋼団地のプロジェクト』が行われ、全国屈指の鐵鋼流通団地がつくりあげられました。昭和43年(1988年)に造成が完成し、浦安鐵鋼団地の第1号の会社は、亀沢の会社だったそうです。亀沢地区の鉄鋼関係の会社のうち約50社が 浦安に移転したそうです。現在のマンションは、移転後の跡地に作られたものが多くあります。
シャーリングとは、鋼板をせん断するための機械です。明治当初は、鋼板を切断する作業は、タガネを使って切断するなどで、大変だったそうです。民間では、明治42年(1909年)に、大阪でシャーリングの工場ができ、亀沢では、大正8年(1919年)に、「江東シャーリング合資会社」が、はじめて取り入れたそうです。その後、北斎通り(割下水)に、増えていったそうです。
東京藝術大学音楽学部声楽科卒業、二期会会員、昭和音楽大学非常勤講師レパートリーは、オペラアリアから日本歌曲、ミュージカルナンバー、ポップスと幅広く舞台コンサートで活躍。近年は作詞作曲も手掛け、さらに西郷隆盛の島妻であった「愛加那」の遠縁にあたることから彼女の生涯を歌と語りで綴った「歌物語 愛加那」を製作、各地で披露し評判を呼ぶ。2008年11月、奄美観光大使に任命される。萩原かおりオフィシャルサイト:http://www.hagiwarakaori.com/