2009年04月29日
10月上旬に、”北斎祭り2009″を開催しました。好天に恵まれ、子どもたちの参加も多く、ご協力いただきました地元の皆様には、感謝申 し上げます。
また、景観検討部会を立上げ、景観に関して、『土地の記憶(歴史)・ものづくり(生活)・観光』という視点から、景観ワークショップを開催しました。来年度は、この成果を踏まえて、地元の皆様とともに、亀沢地区の景観について、具体的に取り組みたいと考えています。
北斎通りまちづくりの会 会長 小林 俊介
広報部会長の清水誠です。
私は生まれ、育ち、51年間生活してきた亀沢地区への思い入れはかなり強いものがあると自負しています。
この地域がより一層発展していくために、私も微力ながらお手伝いができないかと発足当時より、「北斎通りまちづくりの会」に参加させていただいております。そして、今回広報部のそれも部会長という、重責を担う役に選ばれたのですが、就任したからには頑張りたいと思います。
広報としては何か大きなことでアピールすることも必要だと思いますが、同時に小さな身近なことを地道に続けていくために努力することも大事なことだと考えます。ひとりひとりの知恵と力は弱くてもみんなの力を合わせれば叶えられることもあると思います。
地域の発展は委員だけに任せておけばよいというものではなく、住民みんなの課題としてとらえていただけたらと思います。そのため亀 沢地区をアピールしていくための何かお気づきのことがありましたらぜひお聞かせ下さい。
墨田区に東京スカイツリーができつつある今、我が亀沢も同時に発展し、魅力のある地区になるために広報活動をしていきたいと思います。
今後とも宜しくお願いいたします。
景観検討部会の企画により、ワークショップを開催しました。「景観」を建物のデザインという面だけで考えるのではなく、このまちを形作ってきた『歴史や生活や文化や観光など』さまざまな面から「景観」をとらえるという考え方で企画しました。今年度のワークショップの内容をご紹介します。
※国土交通省の住まい・まちづくり担い手事業(長期優良住宅等推進環境整備事業)の補助を受けて開催しました
“亀沢地区のものづくりの時代”として、莫大小(メリヤス)と鉄鋼について、関係者の方に集まっていただきました。
莫大小(メリヤス)と鉄鋼が、亀沢に誕生した頃、発展した頃のことについて、お話をうかがい、貴重な資料も提供いただきました。
(写真提供 澁井康又)
すみだ郷土文化資料館の西村氏から、戦前・戦中の生活実態についての記録を絵画や地図や映像をもとに、うかがいました。出席者も当時の記憶をたどりながら、まちの様子や生活について、地図を見ながら話し合いました。
戦前の様子を伊藤製パンの映像で見ることが出来ました。
名所旧跡として、寺社、名店(和菓子)、旧居跡、工房ショップなどをリストアップしました。
観光資源を整理してルートづくりを行うための新たな発見もありました。
緑図書館の松島氏から、亀沢地区のある本所は、江戸時代の明暦大火後に開発されて、できあがったまちで、これが現代につながっていること。また、弘前藩津軽上屋敷があったことから、武士・町人・商人等が住みあった町で、現代の職人のものづくりの土台が出来上がったということを含めて
○古代から中世の頃
○江戸期、ゆかりのある人
○明治の工業化、ゆかりのある人
○割下水
以上についてのお話がありました。
今回は、「割下水」の話について特集します。
現在北斎通りと呼ばれている通りは、明暦大火後の本所開拓により、万治2年(1659)両国橋が完成したと同じ年に造られた通りで、割下水と呼ばれていました。本所の地は、もともと湿潤で洪水もありましたから、通りの中央に堀割をつくって道路を二分し水はけをよくしたので割下水といわれたのです。5つの割下水がありましたが、ただ割下水といえば、現在の北斎通りにあたる南割下水のことでした。江戸東京博物館がある辺りは幕府の御米蔵のあった所で、周りを堀で囲んでいました。南割下水はこの東側の堀から水を引き大横川まで8町(約870m)余あり、幅は9尺(約3m)あったといいます。割下水には八重桜の並木があり、柳も植えられていたといいます。魚も泳いでいました。割下水に架かる橋には大横川の方から久方橋、弥生橋九重橋、若葉橋、千歳橋、松花橋、青芽橋、葉沢橋というように美しい名が付けられていました。通りの両側には津軽候の上屋敷や旗本の屋敷が多くあり、戯作者、俳諧師、絵師などが往来し武家と町人の文化が入り交じった所でした。
享保4年(1719)、本所は町奉行の支配下になり、割下水の管理もその任となります。割下水は直接隅田川に通じてはいないので流れはゆるく、度々底をさらう必要があったようです。大横川の長崎橋辺りに浚渫の人足のための風呂小屋を建てた事や、浚った土で両側に土手を造ったとの記録もみられます。下水の修復も町奉行の管理の下で行われました。亀戸村の割下水引受人という役の者が実際に調査し工事の見積を出して、入札により業者を決めています。支払いは本所見廻の与力が町地代から払うよう町年寄りに命じていました。
割下水は明治の中頃までは江戸の様子をとどめ、小林清親の弟子井上安治が東京名所絵として描いています。(絵)工業化と洪水で割下水は次第に荒れ、関東大震災後の昭和5年には埋め立てられました。(写真) 【緑図書館:松島茂】
009年9月26日(土)~10月4日(日)に行なわれました。今年は参加型の新しい取り組み、金魚ねぶたのワークショップやストリートペインティングにこども達の明るい笑い声が響きました。
金魚ねぶたのワークショップ。青森県民会のぁのぁ会のみなさんにご協力頂きました
Tシャツアートフェスティバル。
優秀賞受賞者の皆さん
ストリートペインティング。道路に大きく広がった巨大キャンバスに思い思いにペイント。
錦糸中学校のバトン部の皆さんのバトンフラワー。
華麗な技とダンスでまつりに花を添えてくれました。
ハワイ・アロハ・アカデミーのハワイアンダンス。
踊りはもちろん、カラフルな衣装がハワイの空気を運んできてくれました。
町会ごとに特徴を出した街かど灯りアート展。
お気に入りは何丁目でしたか!?
『すみだ北斎美術館』の建設予定地である、緑町公園テニスコート跡地で行われている「埋蔵文化財の発掘調査」を見学。
この一帯は、江戸時代には、「弘前藩津軽家」の上屋敷があったとされている場所です。
現在、深さ約1.2m掘られた段階で、屋敷の西側端で、長屋があったと思われる辺りに土蔵跡もあり、東側には石組された下水・木樋の下水の跡、木樋の上水と井戸の跡、什器の保存等に使われたと思われる地下に埋められていた「穴蔵」の木枠などが発掘されています。
その他、焼塩壷、瀬戸物、多種類の貝類等、貝は今までの江戸遺跡では珍しい程多量に、巨大な竪穴から検出されたそうです。(食するだけでなく、地盤を固めるために、使われることが多いそうです。)ここからさらに地下3mまで発掘が続けられるとの事です。話として、聞いてはいましたが、現実に自分の目で、発掘の様子を見ると、今迄、特別に考えもしなかった、自分達が住んでいる、この亀沢の町の下に、江戸時代の人々の生活の証が、其のまま眠っていたんだ・・・・という事を実感し、今までとは違った愛着を、この地に感じました。
ここに建設される「すみだ北斎美術館」を訪れて下さる、外部の方々にも、北斎の作品を見ていただくと同時に、縁ある「弘前藩津軽屋敷」の事も知っていただけたらと思いました。
(文責 鈴木・田中)
高橋 祐 1960年墨田区亀沢生まれ
亀沢1丁目松喜2階が稽古場ですので、先ず松喜の門をたたいて一杯は? (文責 清水)