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北斎こぼれ話 
晩年の北斎さんと日本の近代化 NEW
「富士越龍図」  富士山を取り巻く黒煙の中を昇る龍は、石炭の黒煙と日本の近代工業化の始まりを表現したようにも思えます。

 北斎さんは「絵本彩色通」に「九十歳よりは又々画風をあらため」と記しました。
 亡くなる直前、数え90歳になった北斎さんは「富士越龍図」を描いています。
 北斎さんの生きた時代、日本は鎖国状態でしたが、長崎出島のオランダ商館や中国からの書物が翻訳され読まれていました。
 北斎さんの弟子には、西洋砲術を長崎の高島秋帆に習っていた蘭学者、大塚同庵もいたので、西洋での蒸気機関の発明と溶鉱炉製鉄、産業革命、鉄道の出現を知っていたかもしれません。反射炉製鉄の本も1843年頃から伊東玄朴たちにより翻訳されていました。
 1853年、存命なら94歳の時、江戸湾にはペリーの蒸気黒船がやって来て開国します。(岡本雅義)

第十一話 書道ガールズではありません
名古屋での大達磨描画

「幟の柱立て」 
これは祭礼の幟の柱を立てている所を描いたもの。長い柱を高く立てるために、右から紐を引きつつ、長い梯子で押し上げている所で、工夫された作業の様子がよくわかります。
 北斎さんの販売キャンペーン、大ダルマを描くイベントです。音羽護国寺や名古屋で行われました。
 回向院では大布袋様、東駒形の合羽干し場では大きな馬の絵で、人々を驚かせ、新発売の浮世絵を即売したそうです。
 右の絵は200年前の1811年(文化八年)に描かれた「幟(のぼり)の柱立て」です。
 この絵を画いた頃は本所亀沢町の新宅に住んでおり、近所には、まだ八、九歳のワンパクな子供だった勝小吉さんも住んでいました。勝海舟の親父さんです。
 北斎さんは働く人たちの絵を、たくさん描いています。北斎さんがスカイツリーを見たら、どんな絵を画くのでしょうか。(岡本 雅義)

第十話 北斎の風景と私たちの風景
 永田生慈さんの書かれた「葛飾北斎」(吉川弘文館)という本に、北斎風景画の最大の特徴は、「ひとつの題材がみせる変化を徹底的に追求した点である。」とあります。
 北斎の風景画ではそのダイナミックな構図の中で生き生きとした人物や生活感を、空の雲や陽の動きから天候や季節感を、波や風の動きから自然の躍動感を、感じることができます。
 たった一枚の絵や写真では伝えることのできないほどの情報量がまるで動画(ムービー)を見ているかのように伝わってきます。私たちは毎日の暮らしの中で身の回りの風景を眺めて、生活の中の思い出として頭の中にそれを記録し、振り返ってとぎれとぎれの記憶を映像として思い出します。
 北斎は、過去の記憶も眼前の情景も想像の世界もすべてを自由に重ね合わせたり、切り取ったり、デフォルメしたりして頭の中の多大な情報をたった一枚の絵の内に描き上げることができたようです。(岸 成行)


隅田川関屋の里
三頭の早馬が疾走する場面は、動画をみているようにも思えます。
第八話 北斎さんはスイーツ大好き!?
「葛飾北斎伝」という本に、次のようなことが書かれています。  北斎さんは夜遅くまで画いて疲れると、寝る前に蕎麦を二椀食べるのが習慣で、酒は飲まず、スイーツが大好きでした。
 本所石原の名物だった「石原おこし」の菓子屋戸崎さんは、北斎さんを訪れる時、必ず大福餅七つ、八つを持って行ったそうで、「北斎さん大変喜んで、舌を鳴らして食べた」そうです。
 「北斎漫画」六編に寄せられた序文にも、草餅やおはぎも大好きだったように書かれていますし、晩年に、露木さんという人がスケッチした北斎さんの室内の絵にも、土産物の桜餅の籠が画かれています。
 常に新鮮な大量の絵を永年画き続けたパワーの源は、スイーツ達だったのかも??(岡本 雅義)
第七話 北斎おじいさんは、割下水周辺で生まれた!!
北斎おじいさんは、1760年10月31日(宝暦10年9月23日)に生まれて、今年で250歳になられます。北斎の高祖父(ひいひいおじいさん)は、忠臣蔵の47士の一人、小林平八郎だったということです。本所割下水(北斎通り)の周辺で生まれたといわれていますが、私達のまちのどのあたりで生まれたのか、今回調べてみました。

"おさむらい"のこどもだったら、割下水の両国寄り!?
北斎がまつられている誓教寺の北斎のお墓には、「川村氏」と文字が書いてありますね。そうすると、北斎は、川村氏の子どもになりますね。
「本所絵図」の地図を見ますと、割下水の周辺には、「川村」という名前の家が、偶然にもありますよ。北斎の生まれた家は、ひょっとすると、その家かもしれませんね。

"町人"のこどもだったら、割下水の錦糸町寄り!?
北斎は、4〜5歳のころに、中島伊勢という江戸幕府の御用たつ鏡師の所に、養子にいってるんだよね。(住まいは、現在の吉良邸のあたりだったらしいよ。)
養子にいったことから考えると、北斎の家は、おさむらいではなくて、町人だったんじゃないかな。
割下水のそばで、町人が住んでいた所は、本所三笠町・長崎町(現在の亀沢4丁目付近)あたりになるから、ここらあたりが、生まれた場所だったかもね。

北斎の生まれた場所に心当たりのある方は、ぜひご一報願います。(協力 墨田区)
第六話 北斎秘伝の長寿薬
昔、人間の平均寿命は、50年と聞かされてきました。赤子の死亡率が高かったので、とも聞いていました。我等が誇る北斎先生、限りなく巾広い多くの作品をどの様な健康管理の元で病にもならず体力を維持して生みだし、21世紀の平均寿命90才までと思う事ありませんか?
あ!ありました。当時の人も才能あふれ、長寿の北斎先生を不思議に思って北斎先生に聞いていました。秘伝の長寿薬を宮本慎助と云う人に書き与えたレシピがありました。
「龍眼肉16匁(60g) 白砂糖8匁(30g)極上の焼酎を壱升壺に入れ良く蓋をして60日間置く、朝と夕に猪口で2杯を飲む。
この薬のお陰で、私88才になるまで無病であった」と90才で亡くなるまで愛用していたようです。現代のサプリメントでしょうか。試されてみますか。 (文責 安斉)

北斎のレシピ

龍眼
むくろじ科の高木、果肉は薬用食用、種は羽子板の羽根の玉に
第五話 長寿の北斎さん眠る
90年に及ぶ生涯の中で93回転居を繰り返したと言われる北斎は、1849年(嘉永2年)4月18日に台東区浅草6丁目で永眠しました。
生前北斎がよく顔を出していた元浅草の誓教寺には北斎のお墓があり、毎年命日の4月18日には追悼法要が行われております。
追悼法要では、お寺のご住職のお母様の「北斎さんに実際会った方がいらした」というお話や、「お布施の代わりに納めてくださった多くの作品は全て関東大震災で焼けてしまい、今お寺に残っているものは、疎開していた作品群と他の方からのご寄贈によるものです。」等の、とても興味深いお話を伺うことができます。
また、お話の中で必ず"北斎さん"とお呼びするのもこのお寺に眠られている、とても身近な方との想いが伝わります。 (文責小林京子)


誓教寺 / 台東区元浅草4-6-9

北斎墓前
第四話

(エルベ川の「大浪」レリーフ)
ドイツベルリンに近いドレスデンのエルベ川にかかる橋の中央に「大浪」のレリーフがあります。設置方法などインパクトの強さが目を引きます。当地の水害を記録した、年月日領域などが北斎の名と共に刻まれています。
風雨の恐ろしさを現代風の展示で表現しています。「大浪」の描写がアウグストゥス橋の上で役立ち、日本人としては誇らしいことと思います。
「すみだ北斎美術館」の開館が待たれる今日、世界にちらばる名作の生みの親、北斎をふりかえり、住民一致で称える時が近づきつつあります。(文責 松本)
第三話 北斎と信仰
北斎は生涯に30回も改号をしている。
「宋理」「画狂人」「為一」「卍」等。私達にお馴染みの北斎の号は「北斎辰政」の略称で、これは彼が深く信仰していた北斗七星の化身とされる北辰妙見菩薩に因んでいる。北斗星は絶対に不動。
絵師北斎の芸術家としての信念と信仰が一致していたのではないだろうか?北斎は柳島の妙見堂(現在の法性寺墨田区業平5丁目)を強く信仰していた為、この近辺に住む事を好んだようだ。妙見信仰は江戸時代に隆盛を極めた。
そう言えば神田お玉が池の千葉道場の流祖千葉周作も妙見菩薩を信仰していたので「北辰一刀流」の名が付いたと言われる。若き日坂本龍馬も師範を努め、山岡鉄舟、新選組隊士も学んだ流派である。 (文責藤間清美)


法性寺石柱の北辰妙見大菩薩

妙見菩薩